昭和52年03月01日 月例祭
只今、暗い廊下をやって来よりましたら、あの、光昭の弟嫁でございますが、あの私を探してやって来よる所でして、今日は夕方電話が掛って来ておりましたと。それがそのお届けするのを忘れておったからと言うて、今お届けするんです。それが先月、佐世保の方で生後1年7ヵ月か、6メートルもある所の下は駐車場のコンクリで今固めてある所へ落ちて、あれからすぐ医者へ担ぎ込んですぐ、こちらにお電話でお届けがあり、それからすぐまた、お礼参拝日があり、まあ一心にお縋りをさせて頂いておるんですが、もう医者が即死しなかったのが不思議だと言っておる。
まぁしかし、まぁその、まだどうとも分からないのですけれども。今朝からお参りをしてみえられてから、佐世保の方からみんな。そして明日から一月間日参をさせ、3月いっぱい日参をさせて頂くからというお届けがあっておりました。その方から、今、あの電話が掛って来とったわけです。それをお届けせんならんと言うて嫁が私ん所に来よるとこでした。それがおかげで、もう初めて、あのミルクを飲んだというお届けがございましたと、こう言うた。
もうここ2、3日もう、ほんとにもう奇跡の連続です。何十年間も寝て起きなかった人が起き上がるようになったり、癌でおかげを頂いて、それがもう癌ではなくなっておったりというようなね、あのうほんっとにそういう、まぁいわゆる奇跡の連続、日々お取次ぎをさせて頂いております。共励殿に大きな横額が掛かっております。それは今の金光様がお若い時にお書きになったものでございますが、「道不孤(みちはこならず)」とあります。道は独りでには開けない。「孤」というのは孤独の孤ですね。
「道不孤」。道は独りでに開けるのではないと、こう言うのです。けれどもこのおかげの道というのは開けますけれども、お徳の道というのは確かに一人では開けません。信心をさせて頂く、いやとりわけ金光様のご信心によっておかげを頂き、助かるということは、お徳の道が開けてこなければならないということでございます。お徳の道というのは、久留米の初代の石橋先生がおおせられますように「この世は徳の船に乗って渡れ」という、おっしゃる。
いわゆるお徳の船に乗ってこの世、あの世を過させて頂くという、氏子信心しておかげを受けてくれというのはそういうおかげなのです。だから先日からも春日原から参ってくる方があるお願いをして、それから電話に、その翌日また電話で、掛って参りました。それはちゃんとお繰り合わせをお願いておりますからね、心配はいりませんと、私が言うた。心配はいらんと言われてもこんな心配なことを、大体お繰り合わせとはどういうようなことだろうかと。
一晩、夕べは考えて寝らんで、とうとう今朝そのことが分からんから、またお伺いに参りましたと言うのです。みなさん分かっておられるでしょうか。お繰り合わせを頂くということ。これはもう私共はもう日常茶飯事に金光教の信心をするものは使いますので、分からんなりに、やはり使っておることがございます。またはおかげを頂きましたとか、お繰り合わせを頂きましたとかと申します。だから金光教の信心はお繰り合わせを頂いて、おかげを頂く道なのです。
お繰り合わせを頂いておかげを頂く。お繰り合わせというのは、成らんところが成るように、直らんところが直るように、開けんはずのところが開けるように、これがお繰り合わせです。こうなっとるけども繰り合わせて、こう合うように神様が働きをくださる。おかげというのは、みなさんが今日もおかげを頂きまして有り難うございましたと、おかげを頂きましたというそのおかげというのは一切が神愛だ、一切が神様の御働きですから、全部お恵みだと頂くことなんです。
おかげとはそういうことです。だからお繰り合わせとおかげというのは違うんです。だからここにおかげ、はいはい、おかげ頂きますようにと言う時と、はい、それはお繰り合わせをお願いしときますというのは、大変違うわけです。ですからみなさん、そのお繰り合わせを頂いて、同時におかげを頂いていくということがお徳を頂く道なのです。金光教で言うおかげというのは、あれはおかげであって、これはおかげでないということはありません。一切がおかげです。
だから信心のない、いわば信心をして肉眼をおいて心眼を開けとおおせられるが、肉眼だけで見ておった時には、それは大変難儀なことでした。心の眼が開けて信心の眼をもってすると、それは育ててずにはおかん、開かせてやらずにはおかんという、いや、道不孤です。そのことによって、独りでには開けないけれども、その問題を通して、より尊い世界に住むことができるんだぞということなんです。
ははぁそんならばお繰り合わせを頂いて、なら何でん有り難い、有り難いとおかげで頂いていきさえすりゃいいですね。はいそうなんです。それだけなんです。ところが問題は、口だけではいけん。心からおかげと信じれる、心からおかげと思えるところがなからんと、ニコニコになってこないんです。口でだけはおかげと言うておっても心では不安があり心配がある。一喜一憂の世界ではいけん。一事成就すりゃ、それでやれやれ安心、もう次には不安なことが起きておる。
それではないんです。どう言う様な事があっても、安心しておれれる世界が開けてくる、それを私は徳の道だと思います。どういう場合であっても安心しておれれる道なんです。それにはね、やはりその道を分からしてもらい、その道を行じていかなければできんのです。今朝からの御理解に、もうほんとに何百回頂いたか分かりませんがね「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ」とおおせられる。
「梅の花は長ごう苦労しておるから長ごう散らん」とある、その長う苦労しておるということはどういうことであろう。信心でいうところの苦労というのはどういうことであろうか、ただ苦労さえしておればよいというのではいかんのです。信心の苦労がなされなければいけんのです。私はここで今日は、大発見をいたしました。ちょうど昨日、この頃から御本部の学院生が3名ここへ修行に来ておりました。
その学院生のお礼の手紙がきておりました。もうほんっとに初めて合楽に来てお道の教師を志したら、これなら私でもお道の教師にお取立ていただくことができる、私のお取次ぎによって、ここを一つ覚えていけば人が助かるようになり、自分も助かっていけれるんだという確信に満ち溢れて、毎日学院での修行が、それこそ水々しいまでにおかげをいただいておるという、3名が3名共、そう言われ、申しております。
私がちょっと驚いたんですけれども、先日は、学院、ここに研究に、研修に来た学院生ばっかりが、学院の先生方全部で懇談会があった。合楽に行って何を学んできたか、親先生はどういうような方か、というて質問を受けた時に、私は初めて教祖様というものを合楽の先生に見ることが出来ました。(笑い)と言うたと。言うた後に「しもうたー」と思うたということが書いてあるんです。
なぜかというと、先生方の多くがです、合楽は金光教ではなくて合楽教だと言われるような先生方の前でこんな発表をしてよかったろうかと思うたと、最後に書いておりました。(笑い)私はこの、ほんとに、合楽教です。だから合楽教が金光教の、今の金光教の中に入っていかなければです、今の金光教はもうだめなんです。段々裾細りになっていっておる、教団全体がね。
このままいったら、というので、まぁ御取次成就信心生活運動の新発足と言った様な事にもなったんですけれども、この12月の報徳祭にお参りをした時に、とてもとても私が言うておることがみんなに分かるはずがないから、もう合楽が、だだおかげを頂いていけばよいんだと、そういうふうに思わせて頂きましたら、神様が「入って広める」とこうおっしゃる。入って広める。
してみると、なら学院生がここに勉強に来た、そしてここの信心を頂いて帰って、例えばそれを発表したそして中には、これは合楽合楽と私共が、まあ軽視しておるけれども、これは合楽の信心も一ぺん研究してみなければいけないぞと言う様な動きになってくる、働きが起こっておると言う事を私は思います。皆さんがおかげを受けられると言う事は教団全体が生き生きとしてくる原動力になるのです。教団が生き生きとしてくると言う事は、世界に愈々和賀心時代を広げていこうという働きにもなってくるのです。
明日は大阪の中近畿の教務所からの、青年教師の方達が5名でここに見学に参ります。明日の夕方から、明後日いや、そうじゃないか、(誰かに聞かれる)明日の夕方から3日の10時までという、ほんのわずかなんです。その間に合楽を見たい、聞きたいと、こう言われました。これはほんとに、大変な言わば働きが起こってきたなあと。教務所から分厚い手紙が参りました。
教務所主催という訳には本部に対して、どうも言い訳がない様な気がするから、私の方の、言わば教務所の青年教師の思い立ちで、その合楽教会を見学させて頂きたいという願いが起っております。それをただ教務所としては、そのバックボーンとしての教務所でございますからその積りで、まぁご教授を頂くようにという訳です(笑い)。ですから、もう朝の私の御祈念やら、皆さんが集ってみえる常態やらを頂いて、それで6時にすみますから、若先生が御祈念が5時半に終わる。
そして私の話が6時に終わる。だから6時から参拝し合わせて頂いておる、特に合楽の組織が知りたいというので、幹部の方、総代さん方、支部長さん方が、まぁ交えて1時間半ばかり、まあ座談会のような形式を取らせて頂いたらよかろう。そして私がここを30分間早く切り上げて8時から9時までを1時間余り、あの私の話を聞いてもらう事になる。そうすれば大体10時。
ですから、色々聞いてもらわなんものはテープに収めておいて、見てもらわなければならんものは、色んな、あの書物なんか、あの印刷物なんかはまとめて差し上げられるもんだけ差し上げるようにしておけと言うて、まあ準備をしておるようなわけでございますけれども、私が3日の日は親教会の報徳祭ですから、どうぞ皆さんも、3日の10時半からですから、どうぞお参りが出来ない方は、お初穂を事務所まで、お参りがある方はいつものように、まあ原さんのお宅にでもなら集まって、おかげを頂きたいと思いますから、どうぞこの席からお願いをしときます。
と言う様にですね、そういう働きが起こってきておるんです。ですから、ここに見に来て、聞きに来たという、その、なるほどこういう生き方があるんだ、こう言う生き方をすれば絶対の道が間違いなく開けれるんだということにならなければならんのです。だからまずは皆さんがおかげを受けてくださらなければ、毎日毎日、こうやって奇跡が連続しておるんだと言うだけでは、いわば皆が合点いきません。
いうならば、お繰り合わせを頂いておるというだけでは、それは御利益だけですから大した事ありません。けれどもね、おかげを頂いておるという事は、一切をおかげと頂けれるほどしの信心がでけておるということにつながる。一切が神愛という受け方なんです。いわゆる合楽理念を基にしての行き方です。2、3日前、ここで研修をいたしました。毎日3時から研修をいたします。
それに私の一番下の栄四郎先生が(笑い)「あんたは何かまとめて、そんなら発表せろ」と私が言いましたら「それが今朝の御祈念にはもう、御祈念の間も眠っとった。親先生の御理解も眠りながら聞いとった。何か確か耳に聞こえてきよるごとあるけれども、その、さっさと自分は夢を頂いておった」という発表をいたしました。「僕と正教先生が、その障子のほこり、あの破れておる所をそそくりよった。そしたらここに説教台に立って、久富博道先生、久富先生の息子です。お道の教師にお取立て頂いておる。その博道先生が、ここで一生懸命にお説教をしておる。
そのお説教がこう、聞こえてくるわけです。お夢の中に。それがどういうお話かというと、友達が金光様の先生といやあ、どうしてあげん早起きせにゃならんかと。と言うて友達が笑うけれども、始めの間は、それは辛ろうて辛ろうて仕方がなかったけれど、そこを辛抱させて頂いておるうちに、いつの間にこういう、朝早起きをするという事が有り難い事かという事がわからせて頂いて、言うならば、有り難くて有り難くて有り難涙に暮れておる」という話をしておった。
「こりゃぁもう栄四郎君そりゃもうあんた、お父さんが話聞くよりか、もう眠っとってからやっぱお夢頂いた方がよかよ」と言うて話したことでした。その久富博道というのが、今日、皆さんに聞いて頂いておる事なんです。おかげを頂くということは、いわばお徳の道だ。お繰り合わせを頂くというのは御利益のこと。おかげを、金光教でいうおかげを頂きましたという事は、全て一切がおかげである。
だから皆さんがここでご挨拶をなさる時に、どんな事であっても「今日もおかげを頂きまして有り難うございました」そして実は困った難儀な事がこんなことがあります、あんなことがありますと言うてお届けするでしょう。だからその事もまたおかげでありますということ。久富ということは久しく富むというのですから、もうこの世だけではない、あの世までも、それこそあの世、日勝り月勝り年勝りだけではなくて、代勝りのおかげを頂けるというのが久富ということに現してあるのであろうとこう思います。
そういうおかげの道が分かれた時にです、いわゆる御利益の道ではなくて、いわゆる博道です。博道とは博愛の博と道という字が書いてあります。いうならば、博道が開けてくる。そういう、いうならばおかげの道、その博道というのは、独りでには開けないということがわかります。眠いから苦しいからと、例えば、この頃からのように、そこの合楽食堂の中村さんではないですけれどもね、子供が今度学院に参りますのに、今ここで修行をいたしております。
もうそれこそ、親戚の者、知った人達が「ちょっと中村さん、あんたもう、ええかげんにぼうけとかんの」と。「そりゃもう、信心する分なよかばってん、長男ばあんた金光様ん先生になすてんなんてん。もう金光様の先生は一番悪かつのごと思うとる。そりゃ分からんから仕方がないのです。けれども親子共々に、もうそれこそお繰り合わせの道はもう嫌という程おかげを頂いておる。おばあちゃんが乳がんでおかげを頂いた。子供が命のないようなとこを二辺も助けて頂いた。
自分は破傷風で、まあ大変難し言われるのが、親先生の一言でおかげを頂いた。考えてみると、まあ10年、10何年かの信心でしょうが、その間におかげを受けてきたは、もうそれこそ枚挙にいとまがないほどである。この頃からいよいよお気付けを頂いてばっかりおる。これは一つ本気で、ほんとな信心頂かなきゃならないと言うところから、息子が学院に行くということになってきた。ですからほんとに一生懸命の信心をさせて頂いておると、それこそ人がぼうけとりゃせんかと。
それこそ、あの気違いのごと言うわけなんです。けれどもね、言うならばお繰り合わせの道から、おかげへの道へ出ろうとする時に、もうそこに一途な神様への憧念心が起こってまいります。その憧念心に燃えての信心ですから、有り難いです。今朝からも総代の秋山さんご夫婦が、今度誠治君が、今銀行に勤めておりました。久留米商業卒業して銀行へ勤めて、でまるしょうのリーダーの御用を頂いておりましたが、色々感ずるところがあって、今度お道の教師を志して頂いてお願いをしておった。
今日親子3人でお願いに来た。(笑い)両親が子供を中にしてお父さんが言うんですよ。「もう今度、誠治が御本部に参りますけれども、私はひとっつも淋しくはありません」ち言って、涙ほろほろ流しよっちゃる。淋しくはない。ただほんとに秋山の家からお道の教師が出ると思うたら、それが有り難い。信心があんまり分からない宮崎におります息子にも言うてやったら、もうその事を大変感動的に喜んでお祝いの言葉を言うてきた。いよいよ今日から修行に入っておるわけです。
言うならばそれはどういう事かと言うと、信心の道、言うならば、今日の御理解で言うなら博道である。お徳の道である。だから、お徳の道、また天地の親神様が私共におかげを受けてくれよというのは、この博道であり、お徳の道なのである。あの世までも開いていく事が出来れる道なんです。お繰り合わせの道ではなくて、おかげへの道をひたすらに進ませて頂くということに精進しなければならない。
今日の私は、梅の花と桜の信心の、色々に角度から頂いたが、今日は長ごう苦労しておるからと言う事は、お互いが難儀が続いて「はぁ一生懸命修行が出来よんなさる。毎日毎日、朝参り夜参りしよんなさる」ね、病気の難儀、経済の問題、人間関係の煩わしい問題の中にね、この世はやっぱり苦の世苦の世界であろうか、けれども金光様のご信心によって、そこを一つ一つおかげを頂いて、また頂いては、また次のおかげを受けてと言う様な生き方ではなくて、信心の苦労と言うのは、そういう苦労ではないと言う事。
信心の苦労というのは、今日私が皆さんに、朝聞いて頂いたように、昨日学院から3名の学院生が手紙をよこしてきておるように、いよいよ合楽におって15日間、いよいよ分からせて頂いたのは、もう絶対の道、これを行きゃ、私のような者でも道の教師になれるんだ、お徳が受けられるんだ、自分も助かれば人も助かる道が開けてくるんだと確信が持てるほどしのものを15日間で頂いて帰ったと。それはどういう事かというと、合楽理念を一応マスターして帰ったということ。
しかもこれは、その気になれば、楽しゅう、有り難くできれることを分からして頂いた。いうならば、教えに取り組んでの苦労を持って信心の苦労というのですから、今までとは大変観点が違うです。はあ、長う修行ができよる。お金が足りんならお金が足りんこつで10年も20年もまーだお金で修行させられよんなさると。それは、ただおかげを頂きたい、それはただの苦労なんです。信心修行じゃないのです。信心の修行というのは、いうなら教えを頂いて教えに取り組むことの修行なんです。
例えば、なら金光教のあのご信心はまず朝参りから、まず朝早起きから。というこつを頂いたならばです、そりゃ眠たい、この眠たいのに、いわば、いわばここでなら、まるしょうの青年達が幹部の、泊まります。夜遅うまで、泊まっていろいろ勉強しております。そして、もうそれこそ1時間か2時間か、寝らんでも、なら栄四郎と幹三郎は、やはり私の3時半の出仕について来ます。他ん者は寝ております。そしてほんとに金光様の先生ちゃ、もうこげんも早起きをせなんじゃろうかと、やっぱ思うだろう。
けれどもね、そういう辛抱を泣く泣くでもさせて頂いておったら、いつのまにかその朝参りとか、その朝の御用とか、朝の早起きが有り難うなってくるというところからです、やはり辛抱しぬかなけりゃいけない、それこそが信心の修行なんです。自分の持っておる様々な難儀な問題、それが信心の修行ではない、それを通して信心が段々分かっていくということは有り難いですけけど。
そのこと自体が信心修行じゃない、信心の苦労というのは、教えに取り組んで、やはり、少しは、やはりうかつにしておると難しいようであるけれども、その気になって取り組めば、段々段々、始めの間は辛ろうて辛ろうてと言う様にあるけれども、有り難うて有り難うてと言う様になってくる。そういう苦労でなからなければ信心の苦労ではないということになると、ただ、毎日お参りがでけておるから。
何10年続いておるからというだけではけない。いかに、例えばなら今合楽では、合楽理念をマスターして、その合楽理念に基づいた生き方を、人が例えばもし笑うても、それを行じ続けていくということが信心の苦労である、修行であるということになるのです。それに取り組むということが信心の苦労であり、信心なんです。そこには必ず花が咲く。必ずうぐいすも来てとまる。
必ず梅のみが実る。それがいわばいつまでおいても悪くならない、梅干の徳ともなってゆくというようなおかげを頂かなきゃならない。お繰り合わせ、そしておかげと。お繰り合わせとおかげを頂きながら、いよいよ真の道、真の信心。いうならば博道である。この世は徳の船に乗って渡れとおっしゃる、その徳の船に乗って渡れるほどしのおかげを頂きたいと思うのでございます。
どうぞ。